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本「粉飾t答弁」

2011/03/24 20:05

 

  粉飾答弁    木村剛著

                    2002年8月 アスキー 発行

 

上下巻、それぞれ400ページを超える力作です。

不良債権問題に関する国会議事録 1万ページ!すべてを読み、

大幅に短縮しながらも、各答弁は最小限の修文にとどめて臨場感

を残し、解説と批判を加えています。

  答弁の下の欄に吹き出しのように、例えば

  「これは官僚答弁の一つのパターン。いろいろと応用が

  ききます。『世の中にはいろいろな意見がございまして、

  AさんにはAさんなりにお考えになられた上で、そうおっ

  しゃっていらっしゃるんでしょう』。中身は何もありません」

  とか、「正しい指摘です」とか、「お得意の『定義論』です」等々。 

 

国会答弁というのは中継放送で見ると、表情とか声が助けになり、

人間性などが伝わってきたりして面白いこともあります。 

平坦な言葉で率直に、筋道を述べるかたもいます。

しかし、お役所言葉を使ってする専門的な質疑の戦いは、回りくど

くてどうにもなりません。 まして、字面だけで読み取っていくなぞ、

お手上げ。 

著者は巧妙な言い回しや中身のない議論などを鋭く指摘しています。

ん… これって 本来は、ジャーナリストの仕事ではないか!

 

各見出しの前で述べている 「木村剛の焦点」もよくわかります。

 

 

テレビのチャンネルをひねると、「国会の議論は低レベルだ」とか「国会議員は何も分かってない」などと、我が国の識者はのたまっている。 まあ、そう言い放つのが識者の証しみたいなところもある。しかし、1万ページを超える国会議事録を読破した今の私は、自信を持って反論できる。不良債権問題に関する限り、その批判は正確さに欠ける。一部では専門的に見てもかなり高いレベルでの議論がなされている。また、問題の本質をよく理解している議員も少なくない。

ただ惜しむらくは、その正しい議論が政府や与党を説得し、賛意を得るまでに至らないのだ。これは国会議員個人の問題というよりも、国会のありかたに問題があるように思われる。議論を尽くしたうえでの採決ではなく、党ごとの多数決による事後承諾の場に墜してしまっているのだ。 要するに、言論の府となっていないのである。

 

 

「世の中が悪いのは誰々のせい」と言い募り、「その悪人さえいなくなれば世の中は良くなる」という陰謀史観は、アジテーションとしては最高のテクニック。わかりやすいし、勧善懲悪で人々に強く訴える効果的な手法だ。しかし陰謀史観は、思考停止という重病をもたらす。冷静な現状分析がなくなる。憎悪を人々の心に植え付け、世の中の複雑さを無視して、悪人さえ成敗すれば素晴らしい明日が来ると思い込ませる。近代国家の政策論は、そういう陰謀史観を克服する合理的思考によって発展してきたのだが、いつの世であっても、陰謀史観の魔力は人々の心を惑わし狂わせてしまうものらしい。

結果的に陰謀史観にたどり着いた識者なら、その仮説が真実であることを立証する義務がある。ある悪人が世の中をコントロールしているという真実を、事実の列挙によって証明しなければならない。その努力があってこそ、近代の合理性を堅持することができる。

事実を直視せず、ひたすら先送りすることのみに、金融官僚はその能力を発揮してきた。不良債権問題に関する非科学的な思考方法は、その場しのぎの対応しか生み出さない。この結果として、金融当局は迷走を続け、そのスタンスは常に揺らいできた。

 

 

つい二年ほど前まで、その場所にはあの百貨店があった。そう、そごう東京店が鎮座していたのだ。客入りの多いはずの休日ですら閑古鳥が鳴き、それでもなお抜本的な経営改革に着手できなかった、あのそごうである。債権のためと称して巨額のおカネが注ぎ込まれたが、その挙句に破綻したことを覚えている読者も多いだろう。何とも皮肉なことだが、自力再建を断念しておカネの垂れ流しをストップし、新たな担い手に引き継いだとたんに、あの苦しい日々が嘘のように人が集まるようになった。まったく同じ立地であっても経営者が変われば、ビジネスは生き返るものなのだ。現実問題として、ビジネスの八割は経営者の能力にかかっている。

「事態はそう単純ではない」と反論されるかもしれない。「デフレスパイラルのなかでうまく儲けることは不可能だ」と開き直られるかもしれない。しかし敢えて言おう。いま日本経済は重大な岐路に立たされている。われわれの目の前には、日本の企業をどういう企業に托すのかという選択肢の問題を突き付けられている。近い将来、未曽有の高齢化が進展する高コスト社会を迎える日本経済において、現在の生活レベルを維持するためには、高収益体質を持つ効率的で成長著しい元気な企業群を裾野にたくさん育まなければならない。

実は、われわれに突き付けられているのは、「高コスト社会を支える企業群はだれか」という選択問題なのだ。それは、債権放棄しても再建できないような非効率的な問題企業たちなのだろうか。それとも、問題企業が退出した後を埋めてくれる新しい成長企業たちなのだろうか。 

 

 

結局、日本経済の足かせになっている不良債権問題について言うと、すべての問題は、「守るべきルールが守られていないこと」に帰結していく。「借りた金は返す」「貸した金は回収する」「約束は守る」「真実を開示する」などというルールが守られていないことに原因があるのだ。その意味で債権放棄の弊害は著しい。大企業が借りた数千億円は返さなくてよくて、個人が借りた数千万円の住宅ローンは毎月遅れることも許されず、中小企業が借りた数億円の設備資金に至っては「今すぐ返せ」と迫られる。こんなアンフェアな状況では真っ当に商売をやることが馬鹿馬鹿しくなってくる。 

 

 

マクロ経済を好んで語る人がとかく忘れがちになるのは、マクロ経済とはミクロの企業や人々の集合体だという現実だ。ザックリと財政資金をこれだけ注ぎ込めば、これだけの効果があるはずだという大胆な議論を飽きもせずに繰り返す。穴の開いたバケツにいくら水を注いでもそこから流れ落ちるだけなのに、足らなければもう一度注ぐべきだと主張する。 

 

 

国の役割は、本物がしっかり生き残っていけるようなフィールドを整えることにある。その作業は、地道だが重要なことだ。あとは個々の企業がそれぞれ工夫して努力して成長していくしかない。 

 

 

創造力と行動力を備え、理想に燃えた若者は 失速してしまった。

 

 こういう人材を生かすことができないのは、大変な損失だと思い

ました。 必ず、立ち上がって復帰してほしいと願います。

 

 

 あるいは、思慮に欠けていたかもしれない

 

 けれど

 

 過つこと自体は悪くない

 

 むしろ必要な経験である

 

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「思い出株式会社」

2011/03/07 23:50

 

 思い出株式会社  土屋嘉男著 清水書院 1993年第一刷

 

作者は俳優としてもとても魅力があります。

 

「これからのお話は、広い広い世界のかたすみに、ぼんぼりの

ように、ポツリと灯っていた、小さい里の思い出話からはじまり

ます。 メルヘンだと思ってください」 と、まえがきにあります。

 

1927年生まれということで、20年ほど私は下の年代ですが、

土屋氏の思い出がいっぱい詰まった心の倉庫に、時々入り

こんで楽しんでいます。

 

幼い頃を語る中で、豊かな自然とおばあさんの存在は重要な

役割をしています。「考えてみると、僕は、ずいぶんおばあさん

に騙されていた。」 愉快なエピソードがたくさんあります。

 

古い小さな革製のトランクにしまわれている「僕ノ父サン」「僕ノ

母サン」の詩、や作文。 犬や猫との交流…3匹の猫たちとの

「反省会」をしている写真が、まえがきの前のページにあります。

なんとも不思議な、そして実に微笑ましい写真です。

 

子供の頃も、戦争が影を落とす中学時代も、俳優になった頃も、

飛び切り元気で逞しく夢を追い続ける著者。 

嬉しいことに、この本を読めばいつでも会えます。

 

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本「私の戦旅歌」

2011/03/03 01:00

 

 私の戦旅歌     伊藤桂一 著

 

 

1938年に入隊、除隊期間をはさみほぼ7年を

中国で軍部についた伊藤桂一。

 

戦を「戦旅」と肯定的にみて、山中の光景を楽し

み、折々の心情を歌によむ。

 

 

 大自然の風光というのは、人間を、基本的に魅了

してしまう力があるのだ、と思う。生死のことなど

忘れさせてしまう。一種の虚脱感、放心状態に陥

れてしまう。大自然への憧憬に憑かれてしまう。

 

 

過酷な環境の中でつくられた素朴な歌は、豊かな

情感に満ちています。

 

 

罌粟の花萎るるまでは鞍に挿し

     ひとり愛でゆく暑き日の旅

 

アカシヤの花咲く蔭は涼しもよ

     わずかの刻を午睡せんかな

 

なにごとのあやまちならんなにごとの

     偽りならんこの若き死は

 

山深くなにごとの夢秘めにつつ

     沁河ゆたかに緑を融くや

 

馬あわれわれに添いきて頸を寄す

     飢えきびしきか汝もさみしきか

 

茫茫とわれを越えゆく歳月を

     堰くすべもなきいくさなりしか

 

 

「聯隊はじまって以来、お前ほどいじめられた兵隊

もいなかったし、いじめ甲斐のない兵隊もいなかっ

た」と古参兵が言ったと記すように私的制裁も厳し

かった中でなお、強いられた生活を受け入れ、心の

平安をたもち心を楽しませることができたのであり

ます。

 

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つらつら椿

2011/03/01 14:35

 

 

椿は春の木」 という文章が、

柳田国男の随筆集 『豆の葉と太陽』にあるそうです。 

花を愛でながらの旅の中、どのように昔人の心を物語

っているのか、いつか読んでみたいと思います。

 

  河のへのつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は

 

万葉集の歌にも多く収められている椿

古代には霊力のある神木として卜に用いられたようです。

 

椿はとても身近にある花木でした。

 

小さな社のある木立の中には大きな藪椿がありましたし、

実家にも大きな椿があります。大輪の赤い八重椿です。

「お前は椿の根元から生まれた」という父の作ったストーリー

は、私の好きな嘘の一つでした。

 

今日から三月。

 

歓びをもたらしてくれる花たちが、次々に開く季節の始まりです。

 

 

  二月尽歓喜漲る予感して

 

 

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本「蕨野行」

2011/02/26 00:18

 

  蕨野行   村田喜代子著   文春文庫

 

 

何年振りかで読みましたが、やはり、魅力のある

物語です。

 

お姑(ばば)よい。

永えあいだ凍っていた空がようやく溶けて、日の

光が射して 参りたるよ。鋸伏山を覆っていた雪も

消え始め、山肌の残り 雪がとうとう馬の形を現

 

せり。まだ尻尾のところは出ずなる が、この数日

の日和が続くなれば、すぐ馬の姿も出来上がり

つろう。春が参るよい。

 

ヌイよい。

残り雪の馬が現れるなら、男ン衆の表仕事の季

節がきたるなり。 田の打ち起こしが始まりつろ

う。裏の庭にもコブシの花が咲いた。 大きな花

が五十倍も百も、真白に満開なるよ。田打ち桜と

申して、 昔からコブシは百姓に田打つ仕事せよ

と知らせるやち。男だちが 田の用意をするあい

だに、女子等は大豆選り分けて良い種を取り 置

いたか。味噌大豆を煮るべしよい。味噌は一年

中欠かせぬもの なれば、これを種まきの前の仕

事とするやち。

 

団右衛門はこの里の庄屋なれば、男仕事の頭

領。したら嫁のおめ は女仕事の頭やち。テラ

もいろいろ尋ねて相談し、名子、小作の かか

等、下女だちを使うて、おらがしてみせたよにや

るがよい。

 

 

「お姑よい」 「ヌイよい」 と呼びかけ、二人の心

の対話で綴られる 物語。 姨捨の悲惨さを突き

抜ける、死を待つ老人等、ワラビ衆の 逞しさがと

ても魅力的です。

 

 

今六十年を生きて、世の荷を肩から外し、わが

夫でも無えかりそめ のワラビ仲間のジジと手を

取りて野草を摘むなり。鳥にても有るやち。 小児

にても有るやち。茫然と不思議の心地せるよ。ま

た鳥が鳴いた。 おれの足はふわふわ歩いてい

たり。世の荷を外した身は軽過ぎて 有り。うれし

くも無えて、悲しくも無え。心はただ寂寞とし有り

つるなり。

 

 

「まこと男は齢とれば、ただ汚なかるべしよ。顏

洗うでもなく、髪をな でるでもなし。詮無え者な

る」 一同腹をかかえて笑うたよい。不思議なるは

洗濯か。昔より女子が 集うて洗い物をするなれ

ば、心浮かびみな上機嫌となる。物を洗う。 髪を

洗う。女子が何かを洗うことはもしや心気をほぐ

し洗うことで有り つろうか。ワラビ野へきて、洗う

べき物も無え身となりつるも、白髪を 解きて川水

にさらし、骨皮の五体を浸し、破れ着を流れにそ

そぐ。 年経りて、棲家を変えつれど、洗濯の愉し

き心地は変わらぬやち。 地獄も一定、棲家とな

る。鬼もババもそのままに生きて有るなり。

 

 

このおおらかな楽しさ。 私は、物語も映画も能

も、老女物が好きです。 

 

映画ならば 「森の中の淑女たち」「八月の鯨」

「ドライビング ミス デイジー」  など。

 

 

 

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本「名人は危うきに遊ぶ」

2011/02/22 22:20

 

随筆集 「名人は危うきに遊ぶ」  白州正子著 より    

      

「能の型について」

 現代人はとかく形式というものを嫌う。内容さえあれば、外に
 現れる形なんてどうでもいいではないか、などという。 そこに
 人間の自由があると思っているらしいが、話は逆なのである。
 絵画にデッサンが必要であるように、形をしっかり身につけて
 おけば、内容はおのずから外に現れる。時には自分が思って
 いる以上のものが現れることもある。

    (略※)
 
 「人間は自由によって何一つしていない」 と ロダンはいった。
 また 「鳩が空を飛べるのは、空気の抵抗のせいだ」 とは、た
 しかカントの言葉である。見かけ倒しの自由の中に道を失った
 現代人は、もう一度そこへ還って、 ほんとうの自由とは何であ
 るか、見直してみるべきだと思う。

 

マサ子母の本棚に見つけました。 私も、白洲正子の爽快な

文章が好です。

 

母は、自由になりたくて多くのものを捨てた後、反発していた祖母の
道に戻るように 能に打ち込みました。 母の捨てたモノの一つである
娘の私は、たがの外れたまま この年に来て、今 能の入口から中を
覗き見るようなことをしています。

母が 祖母のように芸を修めることは出来なかったように、私も 母の
足元にも 行き着くことはできません。 このことは、能力の差というだ
けではなく、ここに書かれているように 「見かけ倒しの自由」の違い
も関係しているかなと思いました。

明治生まれの祖母は、小さな子どもの目にも美しく見える人でした。
あの時代の人は、日常の仕事の立ち振る舞いの中にもしっかりした
形が身についていたのでしょう。 

  (※一部)
 ふだんの稽古とは、形を自分の物にすることで、目をつぶって
 いても、何を考えなくても、ことはすらすら運ぶ。下手の考え休
 むに似たりで、何百年もかけて完成した芸術が、個人の浅はか
 な智恵など寄せつけるはずもない。それ程お能の型とは非情な
 ものであり、有難いものでもある。


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本 「書は語る 書と語る」

2011/02/20 23:51

 

書は語る 書と語る 
        ―― 武将・文人たちの手紙を読む

増田 孝 著  風媒社 出版

日常の筆記用具として筆以外に無かった時代と近代とでは、
「書」を同列に考えることはできない。 

いま書家が作品として書いている「書」は、過去の日本の文化
を形作ってきた 実用目的で書かれた「書」とは異なるもの。

相手に意思を伝えるという、実用に裏打ちされた手紙の書には、
その実用性ゆえに「人」が表れやすい。

ゆえに、その内容と書の姿とがいかにもそぐわしい関係として
表れ、書いた人の素顔をみせてくれる。

日本人の遺した書を読み解きながら、<日本人とは何か>
を探る糸口を得ていただくことができましたら、私としては幸
いです。
 (茶の部分原文のまま)

歴史上の人物21名。 その書に関する詳しい資料と、深い
考察とが記されています。 


口語訳がついているので面白く読めました。 しかし、私には
もったいない本で…。「たいせつなことがたくさん記録され語ら
れている本だ」と思うも、まるで身に付かず。




で、なぜこの本を記しておこうと思ったか。
これです。   ↓
        


なんじゃこりゃ あんまりだ…

 


民主党小沢一郎幹事長は2日、日本記者クラブが主催した菅直人首相との討論会前に、控室で主催者側から恒例となっている揮毫(きごう)を求められると、力強い文字で「小沢一郎」とだけ書いた。

「今日の気持ちを」と再度促されたが、小沢氏は「真っ白」とおどけながら答え、筆は取らなかった。

これに対し首相は「初心を貫く 平成二十二年九月二日 菅直人」と記した。

もっとも首相は「初心」の「ころもへん」の点を入れ忘れ、「しめすへん」になってしまった。
(産経)



知識も無く、悪筆の私とて、これでは言いたくもなります。
 

「情けない…」

小沢さん 右下に名前のみ。 「白紙委任」か~
自分のことしか考えていない。

 

菅さん 馬鹿でかく書いた自分の名前。 肝心の揮毫は、勢いも
無い、気迫も鋭さもメリハリも無し。自信なげにシリツボミ。おまけ
に間違う。これじゃ何事も貫けまい。 


う…… やはり   な。

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胡蝶

2011/02/19 22:47

 

 謡曲 「胡蝶」

 

 

春立つ空の旅衣。春立つ空の旅衣
日も長閑なる山路かな

これは和州三吉野の奥に山居する僧にて候。
我名所には住み候へども。
未だ花の都を見ず候ふ程に。
此春思ひ立ち都に上り。
洛陽の名所旧跡をも一見せばやと思ひ候。

三吉野の高根のみ雪まだ冴えて。
三吉野の高根のみ雪まだ冴えて。
花遅げなる春風の吹きくる象の山越えて。
霞むそなたや三笠山茂き、梢も楢の葉の。
廣き御影の通すぐに。
花の都に着きにけり。花の都に着きにけり。

急ぎ候間。程なう都に着きて候。
此所を人に尋ねて候へば。
一条大宮とやらん申し候。
心静かに一見せばやと思ひ候。

                       マデ

 

 

謡は楽しいです。詞も節も美しいですし、声を出す

と気分もよくなります。謡本を見ないで謡えるように

したいと思います。そのほうがもっと楽しいと思い

ますから。

 

 

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本「納棺夫日記」

2011/02/06 00:00

 

 

 納棺夫日記  青木新門 著 より

 

私が、この葬送儀礼という仕事に携わって困惑し

驚いたことは、一見深い意味を持つように見える

厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんど

の支離滅裂なものであることを知ったことである。

迷信や俗信をよくぞここまで具体化し、儀式として

形式化できたものだと思うほどである。

 

こういう儀式や風習が生まれる原因も、元はとい

ば「我々はどこからきて、我々は何で、我々はど

こへ行くのか」があいまいであることから来てい

るの

である。

 

死とは何か、往生とはどういうことか、と思い続

た青木新門さん。

 

宮沢賢治や親鸞の世界に導かれます。 

 

 

宮沢賢治の「 眼にて云ふ」という題の不思議な詩

 

だめでせう

とまりませんな

がぶがぶと湧いてゐるですからな

ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといゝ風でせう

もう清明が近いので

あんなに青空からもりあがって湧くやうに

きれいな風が来るですな

もみぢの嫩芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波をたて

焼痕のある藺草のむしろも青いです

あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば

これで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかゝはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

たゞどうも血のために

それを云へないがひどいです

あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです。

 

これは、宮沢賢治の臨死体験の作品と、著者は言っています。

 

 

 

次の詩は高見順が亡くなる1年前に刊行した詩集

『死の淵より』 の中の1篇「電車の窓の外は」です。

 

電車の窓の外は

光にみち

喜びにみち

いきいきといきづいている

この世ともうお別れかとおもうと

見なれた景色が

 急に新鮮に見えてきた

この世が

人間も自然も

幸福にみちみちている

だのに私は死なねばならぬ

だのにこの世は実にしあわせそうだ

それが私の悲しみを慰めてくれる

私の胸に感動があふれ

胸がつまって涙がでそうになる

…………

 

 

 

32歳の若さで亡くなった井村和清医師の遺稿集

「ありがとう みなさん」 (後に『飛鳥へ、まだ見ぬ

子へ』と改題され祥伝社より出版)の文からも同質

の光を感じる。と、著者は書いています。

 

 

中野孝次氏の著書の中の

「死をつねに自覚していないかぎり、真の生の把握、い

ちのよろこびはありえないのだ」 

と共通するところがありますですね。

 

 

 

 

平成23年2月5日(土)

母が死にました。 87歳。

 

母と私とはおかしななめぐりあわせにありまして、すれ違う

ような出会いと別れを繰り返しました。

しかし、この本に記されているように、つまるところ、みな、

ぽかっと光る一つのところへ行くのではありますまいか。

などという気も、してくるのであります。

 

 

  春立ちて紫雲の扇のひと失せる

 

           

 

 

 

 

「末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい、説法

も言葉もいらない。

きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風の

ような人が、側にいるだけでいい。」

 

 

私はそのような人にはなれませんでしたけれども。

葬儀はなるべく簡素にしました。葬儀社のかたも、

希望にそってくださって感謝。 

2月7日の本日、穏やかな 葬式日和でありました。

 

 

 

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「今ココニ」

2011/02/04 10:28

 

 

 

中野孝次さんが書いていた「今ココニ」…
もう少し詳しく。



 「老年の良識」  中野孝次 著  海竜社 より

尾崎一雄はわたしがひそかに師と仰ぐ小説家であり、と

くにこの大病以後の作品に感銘を受け、そのあるものは

ほとんど暗誦するくらい何度も読んだ。たとえば『美しい

墓地からの眺め』のこんな一節がそうだ。

 

  注 尾崎一雄は、44歳の時(1944年)胃潰瘍の   

    大出血で昏倒し、  郷里小田原市下曽我

    に帰って、以後長い闘病生活に入った。
  
    ほぼ寝たきりの療養生活の中で尾崎が最も

    痛感したのは、自分がそれまでいかにぞん

    ざいに生きて来たかであった。

    その思いが、病が少しよくなって書いた『虫

    のいろいろ』その他の名作を生んだ。


↓は、尾崎一雄 『美しい墓地からの眺め』の一節

 

緒方は寝床から抜け出して縁側に出る。煙草に火をつ

け、うらうらとした陽ざしの中へゆっくりと煙を上げる。激

しい勢いで若葉を吹き出してゐる庭前の木や草を、しげ

しげと眺める。「俺は、今生きて、ここにかうしてゐる」か

ういふ思ひが、これ以上を求めぬ幸福感となって胸をし

めつけるのだ。心につながるもの、目につながるものの

一切が、しめやかな、しかも断ちがたい愛惜の対象とな

るのもかういふ時だ。

 

 

「老年の良識」に戻る

 

およそ幸福というものをこれくらいむずと手に摑んでみせ

た名文はない、という思いにとらわれる。

このすぐ向こうには死が顔を覗かせている。自分は危う

く向こう側に行く所であった。が、自分は養生によってそ

れを免れ、今こうして日の光を浴びて青葉若葉の中にい

る。今ここにこうして生きている。これが生きているという

ことだ。そのいのちをこのようにたしかに感じていること

こそ、幸福というものではないのか。

 

わたしはこれを読むたびに、幸福とはなにもプラスの状

態ではない、足し算はない、という思いに駆られた。高

価な車を買ったり、金儲けをしたり、ブランド品を所有し

たり、うまい物を食ったり、歌ったり踊ったり、そういうプ

ラスの行為が幸福を生むのではない。それはたんに欲

望の充足であり、ひとたび得られればすぐ消滅する。そ

れどころか、欲望というものは充たしてやればますます

渇え、さらに肥大する病であって、充たせば充たすほど

さらに先を欲し、ついに満足することがない。欲望をいく

ら充足させてもそこに本当の心の充実、安心、幸福は絶

対に来ないのだ。

 

死をつねに自覚していないかぎり、真の生の把握、いの

ちのよろこびはありえないのだ、と思うようになった。

 

 

 

 

あるのは永遠のなかにある「今ココニ」あるのだ。 と。

病を得たとき、皆しみじみと体験することではあります。


著者は、道元禅師の正法眼藏にまで想いを馳せるのです
が、

そのあたりになると私には難しくてわかりませんでした。

 

 

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